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梅田芸術劇場メインホール公演「ロミオとジュリエット」より=撮影・岸隆子

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梅田芸術劇場メインホール公演「ロミオとジュリエット」より=撮影・岸隆子

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梅田芸術劇場メインホール公演「ロミオとジュリエット」より=撮影・岸隆子

 梅田芸術劇場で大絶賛を浴びた後、舞台を博多座に移して公演中の宝塚星組「ロミオとジュリエット」(8月24日まで)。2001年にフランスで初演の後、世界各国で上演されている人気ミュージカルの宝塚版であり、「エリザベート」で知られる小池修一郎が演出を手がける。

 いったい何がすごいのか? 興味しんしんで座った博多座の客席。幕が開いてすぐにわかった。赤と青の斬新な衣装、ラメを多用したキラキラなアイメイク、耳に新しいロック調の楽曲、力強い群舞…そして何より、舞台から聞こえる「今どきの若者」の息づかい! ああ、これが観客の心を捉えたのだな、と。

 「ロミオとジュリエット」といえば、言わずと知れたシェークスピアの戯曲。だけど、この舞台に生きるロミオ(柚希礼音)は、ベンヴォーリオ(涼紫央)は、マーキューシオ(紅ゆずる)は、16世紀の古典のなかの登場人物ではない、21世紀の今、「キレそうな心」を持て余しながら、そこらを歩いていそうな若者だったのだ。

 もう子どもじゃない、でもオトナにもなりきれてない存在をタカラヅカの男役が演じると、これが絶品! おそらく本物の男性では表現し得ない危うさと儚さ、それゆえの美しさ。ここに、この作品をタカラヅカで上演する意味があるのだと確信した。

 ガラスのように透明で繊細な心を持ちながら、「憎しみ」うごめく大人の世界に放り込まれた彼らは、とまどいながらも、その有り余るエネルギーを暴力という形でぶつけていかざるを得ない。モンタギュー家とキャピュレット家、血で血を洗う抗争が続くヴェローナの街が、そのまま殺伐とした現代社会にみえる。

 ただひとり、一風変わっているのが主人公、モンタギュー家の御曹司ロミオだ。喧嘩沙汰と女遊びに明け暮れる仲間たちから離れ、森の中で「理想の恋人」の登場を夢見る「オクテ」な若者。今でいうなら、二次元の世界で理想の女性を求める草食男子といったところかもしれない。

 だが彼は、そんな自分のなかにも負のエネルギーが潜んでいることをちゃんと知っているし、それがいつか暴発する日を恐れている。代表ナンバー「僕は怖い」では、そんなロミオの内面を切々と歌い上げる。

 やがて来るキャピュレット家のジュリエット(夢咲ねね)との出会い。一見、運命の出会いのようであり、じつは暴発の引き金でもある。彼女はまさにロミオの理想そのまま、だがちゃんと血の通った生身の女の子であり、現実に負けずに恋を貫く信念を持っている。強がっているようで意外ともろい男性陣とは対照的な瑞々しさ。

 そのキャピュレット家が、これまた今どきありそうな問題家庭だ。家族をかえりみない身勝手な父親。「夫を愛したことなどない」と言い放つ母親。そして、従妹ジュリエットへの叶わぬ想いに苦しみつつ叔母との禁断の恋に溺れる、孤独な貴公子ティボルト(凰稀かなめ)。原作と異なり、ティボルトをロミオの恋のライバルとしてフィーチャーしているところが、ミュージカル版の特徴だ。

 そんな中での唯一の救いといってもよいのが、ジュリエットを温かく見守り、ロミオとの恋を豪快に後押しする乳母の存在。この重要な脇役を白華れみがパワフルに演じた。どちらかというと楚々とした正統派娘役のイメージの強かった彼女でこうした役を観られるのは、意外でもあり、痛快でもある。

 進みゆく悲劇を裏で操るかのように、要所要所で登場する「死」と「愛」。鍵を握る重要な役どころを、若手の真風涼帆と礼真琴が堂々と演じきった。エリザベートのトート役を彷彿とさせる「死」はこれまでの海外バージョンの踏襲だが、「愛」は小池修一郎による宝塚版オリジナルだという。

 最後の場面、霞のなかで愛のダンスを踊るロミオとジュリエットの背後で、ずっと対立を続けてきた「死」と「愛」も手を取り、ともに踊る。ついには「愛」が「死」に組み敷かれる構図にはドキリとさせられた。

 「シェークスピアの古典を観ました」という重々しい感じはまったくしない。むしろこれは、生きづらい現代社会のなかの、リアルで純粋な恋の物語。ほろ苦い、でも、すがすがしい気分で劇場を後にしたのだった。

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    neko Chan 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()